横尾真(構造家)

Shin Yokoo

東海大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了後、池田昌弘建築研究所を経て2004年にOUVI設立。2016年東京理科大学大学院理工学研究科建築学専攻博士後期課程修了。博士(工学)。2017-2019年、ベオグラード大学特別講師(2017年度文化庁在外研修制度1年研修生)。2020年よりシンガポール国立大学客員上級研究員。おもな構造設計作品に、SNARKとの協働「中郷の家」(2019)、atelier nishikata設計の「4 episodes」(2014)、POINTとの協働「ジュッカイエ」(2009)など。おもな論文に、「E.ボーデュアン、M.ロッズ、J.プルーヴェによる『クリシー人民の家」の意匠的特徴について』(日本建築学会技術報告集、2015年6月)、『「ビュックの飛行クラブハウス」にみられる建物の特徴と構成部品の関係』(日本建築学会計画系論文集、2015年6月)、『「ヴァカンス用住宅 B.L.P.S. 」にみられる建物の特徴と構成部品の関係』(日本建築学会計画系論文集、2017年9月)など。

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October 22, 2021

ジャン・プルーヴェの窓 #2
──プルーヴェ自邸の窓

「プルーヴェ自邸」は過去に手掛けたプロジェクトの余りものを寄せ集めてつくられた興味深い事例である。連載「ジャン・プルーヴェの窓」の第2回目では、プルーヴェの他の実践がどのように自邸へと援用されているかを示しつつ、過去のどのプロジェクトにもない自邸独自の窓デザインを解き明かす。

 

プルーヴェは建築家?

プルーヴェは独学で建築を学んでおり、フランスにおける正式な建築士の国家資格をもっていなかった。他の建築家と常にコラボレーションしていたのは、そんな背景も理由にある。一方で、家具から建築まで多岐にわたるコラボレーションの結果、プルーヴェは建築家と構造エンジニアの資質を曖昧にしていく。そんな彼の職能を表現する肩書が、いくつか存在する。最も有名なものとして、ル・コルビュジエの著書(『モデュロールⅡ』)ではこう述べられている。「ジャン・プルーヴェは、とりわけ雄弁に『建設家』(Constructeur: 仏)を体現する。それは社会的な資格として、未だ法的に認定されていないが、我々が生きてゆく時代で切に求められている職能だ」と。プルーヴェのもとで働いていた日本人建築家・早間玲子氏が昨今執筆した著書(『構築の人、ジャン・プルーヴェ』)では、「構築家」とも訳されている。また、プルーヴェの先進性をいち早く紹介したケネス・フランプトンの著書(『現代建築史』)では「職人的技術者」(artisan/engineer: 英)とされている。
そんなプルーヴェが生涯たった一度、建築家の如く、建物の構想から設計、そして施工までもひとりで実現したプロジェクトがある。ナンシーの住宅とも呼ばれる「プルーヴェ自邸」(Maison de Jean Prouvé: 仏)だ。奇しくも、このプロジェクトが実行されたのは、創作の場であった自身の工場を去ることになった時のことである。

 

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July 21, 2021

ジャン・プルーヴェの窓 #1
──ディテールに宿る4つの構築的特徴

金物職人として自身のアトリエを立ち上げながら、ル・コルビュジエをはじめとした先進的な建築家との協働を通して、自身もモダニズムを先導する建築家となっていったジャン・プルーヴェ。建築だけではなく家具のデザインにおいても知名度が高いプルーヴェは、戦後の復興期には、工場で製作した部品を現場で組み立てるプレファブリケーションの分野を切り開いた。プルーヴェの実践を構法と意匠の両面から研究している構造家の横尾真が、実験的な窓の試みを解き明かす。

 

1901年フランス、ナンシー市に生まれたジャン・プルーヴェは生涯にわたって多くのデザイン(主に家具や建物のコンストラクション)に関わった人物である。キャリアの初期は、アール・ヌーヴォー、ナンシー派を率いていた父であるビクトール・プルーヴェの影響を受けて、エミール・ロベールの下で金属細工師の修行を経て、鋳鉄職人として活動していた。晩年はパリに建つポンピドゥー・センターのコンペ審査員長を務め、建物完成のために尽力し、1984年に他界した。その間、コラボレーター(協働設計者)と呼ばれた建築家や自らのスタッフたちと協働して、戦前・戦後の仮設住宅を量産し、革新的な技術を応用した建設法を駆使して、個人住宅、公共施設、学校建築、そこで使われる家具などを次々につくりだしてゆく。250人ほどの職人を抱えていた「アトリエ・ジャン・プルーヴェ」(後のマクセヴィル)と呼ばれる工場においてのことである。彼は生涯で1456プロジェクトに関わり、そのうち412プロジェクトが建築作品であった。