コラム

June 25, 2020

穂村弘 短歌に詠われた窓たち(後編)

歌人・穂村弘さんが振り返り、考察してゆく、短歌にさまざまに詠われてきた「窓」。古代から現代へとたどってきた前編に引き続き、この後編ではさらに、車窓や病院など動く/動かざる空間における「窓」、果ては想像の空間やヴァーチャルな世界における「窓」までも考えていきます。
歌が生の皮膜に触れようとするとき、そこにふと現れる「窓」は、とても印象的です。


【車窓】

前回は、我々が日々の暮らしの中で、毎日のように目にする窓についての短歌を紹介した。具体的には部屋の窓、教室の窓、会社の窓である。今回は、そこからさらに範囲を広げて、さまざまな窓たちに目を向けてみよう。まず始めは乗り物の窓である。​

太陽を機窓船窓車窓にと嵌めて見にけり今日一日に  丹羽利一​

旅の歌である。にも拘わらず、旅先の珍しい風景などではなく、どこにいても見える「太陽」を詠っているところがユニークだ。ただし、特別な点がある。作中の〈私〉は一日の間に飛行機、船、そして電車(もしくは車、バス)と乗り換えながら、それぞれの窓越しに「太陽」を見たのである。「機窓」「船窓」「車窓」という窓の変化によって、一つでありながら別のもののような不思議な「太陽」を感じたのだろう。​

車窓から見える景色は抜歯屋がペンチをならべ微笑むインド  大西ひとみ​

こちらは素直に旅先の景色。と云いつつ、車窓から見えたのはなんと「抜歯屋」である。並んだペンチを見ても、教えられなければなんだかわからないだろう。そんな商売があるとは、さすがインド。​

食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕  穂村弘​

一方、こちらは日本の風景。だが、時間的には遡って昭和である。現在では電車の高速化によって「食堂車」はほとんど絶滅しかけているらしい。必然的に「食堂車の窓」というものも、この世から消え去ってしまうことになる。​

助手席に座る人にも役割がほしくてすべての窓を開いた  鈴木晴香​

ドライブをしているのだろう。「助手席に座る人」の「役割」が地図のナビゲーションとか音楽をかけるとか運転者に飲み物を飲ませることではなく、「すべての窓」を開くというところが面白い。そんなことをしても実質的な意味は限りなくゼロに近い。でも、その無駄こそがきらきらした青春の空気感を生んでいる。​

するするとトナリの車の窓が開き「おばさん九十位?」と坊や  正田敬子​

わざわざ窓を開けてそんなことを聞いてくるとは、ずいぶん失礼な話。だが、短歌になると妙に面白い。「坊や」という表現に作者の心の余裕が感じられる。前の歌も同様だが、この世には開く窓と開かない窓の二種類があることを改めて思う。

May 13, 2020

穂村弘 短歌に詠われた窓たち(前編)

古代から現代まで、短歌が織りなしてきた言語表現の小宇宙。その中には、物言わぬまま私たちの日々に溶け込んできた「窓」が、印象的に詠われている歌も見受けられます。
歌作のみならず、歌論も多く手がけてきた歌人・穂村弘さんが全2回で振り返り、考える「窓の歌」たち。その歌もまた、私たちが世界を感じる「窓」なのかもしれません。


【古代の窓、近代の窓​】

今回、改めて調べてみて気づいたのだが、窓という言葉の起源は古い。我が国最古の歌集である万葉集にも既に現れている。​

窓越しに月おし照りてあしひきの嵐吹く夜は君をしそ思ふ  作者未詳『万葉集』

窓越しに月が照り渡って山風が吹く夜はあなたのことがしきりに思われる。そのように詠われた作者の思いは、現代の我々のそれと変わるところがないようだ。当時の窓は明かり採りの高窓だったらしい。​
そんな窓に大きな変化が起こるのは近代になってからのことである。

朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れど飽かぬかも  正岡子規​​

朝となく夕となく一日中眺めていても窓からの上野の森の景色は見飽きることがない。ごく普通の内容に思えるが、実はここには特別な感情が込められている。ポイントは「ガラス」である。​

「なによりもまず窓にガラスが入ったということが近世以前と異なる条件だが、子規の歌はとくに、病床の窓にガラスを贈られ、横臥して庭を見ることが出来たところより歌われたもので、ガラスが透明である、というあたりまえのことが、新鮮であった喜びである」​『岩波現代短歌辞典』より​