February 7, 2017

Ⅰ メディアとしての窓─なぜ窓越しに眺めることは楽しいのか─

浜 日出夫 (慶應義塾大学文学部教授)

私たちは窓越しに景色を眺めることが好きなようです。新幹線や飛行機、カフェでも窓側の席が人気がありますし、会議中や授業中でもつい窓の外に目が行ってしまったりします。なぜ窓越しに眺めることは楽しいのでしょう。

〈メディアとしての窓〉

ここでは窓を「メディア」としてとらえてみることによって、なぜ窓越しに眺めることが楽しいのか考えてみたいと思います。「メディア」は新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどのマス・メディアを意味する言葉として使われるのがふつうなので、窓がメディアってどういうことだろうと思う人も多いかもしれません。

「メディア (media) 」はもともと「中間」「媒体」を意味する「メディウム (medium) 」の複数形で、人間と対象の間に立って対象についての経験を媒介 (mediate) するもののことです。この広い意味では、窓もまたたしかにメディアです。窓もまた人間と人間の間に立って人間と人間の間の関係を媒介しますし、人間と対象の間に立って対象についての経験を媒介しています。それではメディアとしての窓はどのような関係を人間と人間の間に作り出し、対象についてどのような経験を生み出すのでしょうか。

ガラス窓は透明なので、私たちはガラス窓が間にあってもなくても同じものを見ていると考えています。しかし実は、ガラス窓が間にあるのとないのとでは、私たちは違うものを見ている、あるいは同じものを見ているけれども同じものについて異なる経験をしているのです。ガラス窓が間に入ることによって私たちの経験はどのように変化するのでしょうか。

〈目のための通路〉

社会学者のジンメルは扉と比較しながら窓の特徴を2つ挙げています。扉も窓も家の内部と外部を分離したり結合したりするものである点では同じです。しかし、扉が作り出す内部と外部の結合は双方向的であるのに対して、窓が作り出す結合は内から外への一方向的なものです (「窓は外を見るためのもので、内を覗くためのものではない」) 。また、扉は身体ごと通過するものであるのに対して、窓を通過するのは視線だけです (「目のための通路」) 。内と外を分離したままで、目によって内と外を結合するというところに窓というメディアの特質はあります。

〈パノラマ的知覚―窓越しに見ることの快楽〉

それではメディアとしての窓はどのような経験を生み出し、それはどのように窓越しに見ることの楽しさと関係しているのでしょう。ここでは窓が作り出す経験の特徴として2つ、「パノラマ的知覚」と「儀礼的無関心の停止」を挙げておきます。両者はそれぞれ窓越しに見ることの快楽と誘惑に関係しています。まずパノラマ的知覚のほうからみていきましょう。

シヴェルブシュは19世紀に登場した鉄道が旅行者の知覚を変化させたとして、鉄道旅行が作り出した新しい知覚を「パノラマ的知覚」と名づけています。鉄道旅行以前の馬車旅行では、車窓風景は前景から遠景へと連続的に広がり、旅行者自身もこの風景の一部をなしていました。しかし、鉄道旅行ではそのスピードのため前景は次々に飛び去っていき知覚されません。この「前景の終焉」によって旅行者は自分が眺めている風景から切り離されます。こうして生まれるのが、対象を自分から切り離して眺める「パノラマ的知覚」です。

鉄道とガラスはどちらも19世紀に普及したテクノロジーです。鉄道の車両にはガラス窓が取りつけられていたし、ガラス窓なしには鉄道はパノラマ的知覚を生み出すことはありませんでした。そして実は、ガラス窓にはそれ自体ですでにパノラマ的知覚を生み出す力が備わっています。内部に居ながらにしてガラス越しに外部を眺めるとき、鉄道から風景を眺めるときと同じように、私たちはすでに窓の外の景色から切り離されています。鉄道が作り出したパノラマ的知覚はガラス窓との相乗効果の産物であったと考えるべきでしょう。そして、窓越しに眺めることが楽しい理由のひとつはこのパノラマ的知覚が与える快楽にあります。新幹線の窓側の席でビールを飲みながら外の景色を眺めているとき、私たちは田んぼで働く人たちや煙を上げる工場で働く人たちのことなど気にかけず、遠くの富士山をのんびり眺めていることができるのです。

〈儀礼的無関心の停止―窓越しに見ることの誘惑〉

パノラマ的知覚は窓という装置が人間と対象の間に入りこむことによってもたらされる効果です。窓なしで対象を眺めるとき、私たちは対象と同じ空間に属する者として対象を見ていますが、窓越しに対象を見るとき、私たちは対象から切り離され、対象とは異なる空間から対象を見ることになります。それでは窓が人間と人間の間に入りこむとき、人間と人間の関係にどのような変化が生じるでしょう。

まず窓なしで人間と人間が相対するときどのような関係が取り結ばれるのか、ふたたびジンメルに登場してもらいましょう。ジンメルは「人は目によっては、あたえることなしには同時に受けとることもできない」と述べています。面と向かって相対するとき、私たちは互いに相手を見ていることを相手に見られることなしに、相手を見ることはできません。目は「もっとも完全な相互性」を作り出すとジンメルは言います。

しかし公共空間ではそうもいきません。すれ違う人すべてといちいちじっと見つめあっていたのでは、なかなか前に進みませんし、第一疲れてしまいます。じっさい私たちもそんなことはしていません。私たちは公共空間で見知らぬ他人とすれ違うとき、相手の全体が視界に入っている間は、互いに相手をチェックしてどちらによけるかを判断します。しかし相手の姿が視界をはみ出すようになるまでには、夜間、車がすれ違うときライトをロービームにするように、互いに視線をそらしてすれ違います。このように相手に関心を払いつつも、礼儀正しく無関心を装う態度をゴフマンは「儀礼的無関心」と呼んでいます。公共空間における人間と人間の関係はこの儀礼的無関心によって維持されています。

それでは窓が人間と人間の間に挟まることによってこの関係はどのように変化するでしょうか。窓が持つパノラマ的な効果がここでも働くように思われます。窓が間に入ることによって人間が対象から切り離されるように、窓越しに人間を見るとき、見ている人間は見られている人間から切り離されます。そのとき儀礼的無関心もまた停止されます。私たちは車の中から歩行者を見るとき、歩いているときにはけっしてやらないぶしつけなやりかたで歩行者を観察しないでしょうか。そしてそこに窓越しに見ることの誘惑が存在しているのです。ロンドンのダブルデッカーの2階最前列は観光客に人気があります。眺めがよいのはもちろんですが、思う存分歩行者を観察できるのも理由のひとつでしょう。

窓の持つパノラマ的な効果を強化するさまざまな補助装置が窓に加えられることがあります。部屋の中を暗くするだけで中を見られることなく外を見ることができますし、ブラインドやすだれを下ろせば、外を見ていることを知られる心配もなくなります。サングラスは相手を見ていることを相手に知られることなく相手を見るためのもっとも簡便な装置ですし、車にスモークガラスをつければ好きなだけ歩行者を観察することができます。

窓越しに相手を見ることはたしかに私たちに楽しみを与えてくれます。しかし私たちが相手に見られないで相手を見たいという欲望を一方的に追求していけば、目がもともと持っていた「完全な相互性」を作り出すという働きが損なわれてしまわないかという危惧を最後に付け加えておきたいと思います。

 

浜 日出夫/Hideo Hama
1976年大阪大学人間科学部卒業、1980年同大学院人間科学研究科博士後期課程中途退学。大阪大学人間科学部助手、新潟大学教養部講師・助教授、筑波大学社会科学系助教授を経て、現在慶應義塾大学文学部教授。専門は社会学説史・知識社会学。主な著作として、「ヒロシマを歩く-慶應義塾大学被爆者調査再訪-」(『法学研究』77巻1号、2004年)、「集中するヒロシマ・分散するヒロシマ-ヒロシマの継承の可能性-」(『日仏社会学会年報』15号、2005年)、「ヒロシマを擦りとる」(山岸健編『逍遙する記憶』三和書籍、2007年)、『社会学』(共著、有斐閣、2007年)、『社会理論と社会システム』(共編著、中央法規、2009年)、『被爆者調査を読む-ヒロシマ・ナガサキの継承-』(共編著、慶應義塾大学出版会、2013年)、『希望の社会学-我々は何者か、我々はどこへ行くのか-』(共編著、三和書籍、2013年)。