October 31, 2017

総論 窓の成り立ち《2》

内田祥哉 (建築家)

建築家・内田祥哉氏による、若手建築家・研究者に向け「窓」を通じて建築を考える「窓ゼミナール」。前回の日本での戦前のサッシのなりたちに続き、今回は戦後すぐ、まだカーテンウォールが登場する前の、日本での知られざるガラス事情が明かされる。

 

日本の窓、襖、障子

内田祥哉 こちらは《元興寺》の写真ですが、障子がもともと入っていたとなると時代的におかしいので、後で入れたのでしょうね【図1】。

こうした窓は、もともとは一本溝だったと鈴木嘉吉【註1】さんは言っています。それが引き違い戸のようなものに発達していくのですが、引き戸の溝は雨仕舞いが大事です。それをきちんとやらないと、水が溜まって溝から腐ってしまう。

  • 図1 《元興寺》の窓
    [内田祥哉所蔵写真]

たとえば、溝の中にじょうろ口をとって、そこから雨水が出るようになっていたり、溝の底を抜いておいて、戸のいちばん外側のふちを引っ掛けるようなものもあります。にじり口に使うような軽い戸なら、これで大丈夫。今は手間がかかるのでなかなかできませんが、石を削り出して、そこに水が切れるくらいのチリをつくっておくなんていうものもあります。

窓の中で日本独特なのは、この下地窓【註2】ですね。普通は土壁を塗り残してつくるものですが、いまではこの部分だけ塗られていない既製品を売っているんですね(笑)。

これは襖の召しあわせの部分です【図2】。襖紙を張るためにちゃんとこういうところを斜めにしておくんですね。斜めにしないと端が下張りの枚数分厚くなって、エッジがシャープでなくなりますからね。下地を手前で止めておいて、最後の仕上げ紙をここで1枚分折って納めるわけです。

図1は東北の田舎の民家で撮った写真で、この家の奥さんが障子を自分で張るときに、切り抜きの絵を入れていました。障子って引き戸のところだけ少し凹ませるでしょう。そのときにこういう細工をして張っている。

これもときどきみかけます。障子の桟に面をとって十字にかみ合わせるなんて、考えただけでぞっとします。

  • 図2 襖の召し合わせ
    [出典:東京帝国大学工学部建築学科講義用資料]

 

丸太のひかりつけ―三重大学《レーモンドホール》

竹は安いという印象があるので、粗末なものを好んで使う数寄屋でよく使われますが、施主にとっては手間がかかる分、値が張ります。実際、竹を使うと高いんですよ。なんで竹みたいに安い物があんなに高くなるのかというと、竹を縦横に組むのは容易じゃないんですよ。しかも「ひかりつけ【註3】」ですからね。皆さんも現場で「ひかりつけ」をやってみた経験があるだろうと思いますが、丸い断面の材を組み合わせて、普通に図面を描くと「ひかりつけ」のようになるでしょう。軽井沢で別荘を設計した若い建築家が、丸太で柱梁を組んで、仕口を全部ひかりつけの納まりにしたら、大工さんがかんかんに怒って、こんな手間ひまかかるのは困る! と言われたという話があります。

津の三重大学に《レーモンドホール》という建物があります。アントニン・レーモンド【註4】が日本に来て間もないころに、最初につくった丸太構造の建物です。これが全部「ひかりつけ」の納まりになっているんですよ。レーモンドさんも日本に来て初めて丸太を使うときに、日本では丸太を組み合わせようとするから、全部「ひかりつけ」になっちゃうわけですね。ヨーロッパでは丸太の「ひかりつけ」なんて想像もしなかったでしょう。ただ縄で結わえるだけですからね。先月あたりから公開されるようになったみたいです。是非行ってみてください。レーモンドさんらしい食事ができる良い建物です。

 

戦後のガラス事情

戦後間もなく、カーテンウォールが出てくるまで、日本でどんなことがあったか、少し付け加えておきます。

ガラスの話に戻ります。当時はガラスが配給制だったなんてことは、皆さん想像もできないと思います。配給制だったので、民間の住宅の設計にガラスは使えませんでした。ガラスがなぜ使えなかったかというと、ガラスを溶かすための燃料が日本にはなかったからです。当時は2.5 mmや1.9 mmのガラスを使っていましたから、すぐ割れるんですよ。割れるとガラス屋さんがきて嵌めてくれたもので、だからひとつの町に2、3軒はガラス屋さんがあったんです。

「銀線ガラス【註5】」って知っていますか? 今は知っている人はほとんどいないと思いますが、ガラスが配給制になって、一般の住宅にはガラスは使えないけど、学校建築には使ってよいことになっていた。ところが、学校建築に配給されたものを、余ったガラスとして横流しする悪い業者がいる。そこで学校に配給されるガラスを「銀線ガラス」にして、学校以外で「銀線ガラス」を見たら、横流しだなとわかるようにしておく。

そういう時代でしたから、ガラスを有効に使おうというところから、建築のデザインも考えられました。たとえば、欄間まで同じ大きさのガラスでデザインをしたのが、小坂秀雄【註6】さん。神戸芸術工科大学の花田佳明【註7】さんが、逓信省【註8】の建築で残っているものを調べてくれましたが、東北地方に残っていたものもほとんど壊されています。小坂さんの作品は、鉄筋コンクリート造のものでも壊されてしまって、ほとんど残っていない。小坂さんの作品は本当にきれいでした【図3】。

そのころには型板ガラス【註9】がありましたね。僕が東京大学に勤めはじめて間もないころに、旭硝子がガラスの本をつくるということで、研究費をもらってトイレに使う型板ガラスの透過性について実験したこともありました。

  • 図3 小坂秀雄による戦後木造逓信建築《仙台地方簡易保険局》
    [出典:内田祥哉編『現代建築──写真集』共立出版、1968]

 

戦後の日本のサッシ

戦後間もないころのサッシは、戦前とほとんど変わりがない。これは広瀬鎌二(けんじ)【註10】さんが最初につくった住宅です【図4】。ほとんどサッシを使わず、鉄のアングルと曲げ板でつくっています。このころは本当にお金がありませんでしたからね。

  • 図4 《SH-1》[撮影:平山忠治]

日比谷交差点にあった《日活国際会館》【図5】は、壊されてしまって、いまはもうありませんが、これが曲げ板サッシを使った戦後初めての建物です。現在ひとつも残っていないと思います。なぜかというと、曲げ板のサッシは錆に弱くて、非常に腐食しやすい。デザインは良いんですよ。曲げ板サッシを使うと、サッシの表面とコンクリートの壁の表面は、タイル1枚分くらいの厚みの違いで、ほとんど平らにつくることができます【図6】。

  • 図5 《日活国際会館》
    [出典:内田祥哉編『現代建築──写真集』共立出版、1968]
  • 図6 曲げ板によるサッシとアングルによるサッシの断面
    [出典:『アルミニウム建築』パウル・ワイドリンガー著、内田祥哉、原広司訳、彰国社、1961]

 

ガラスブロック

このころ、ガラスブロックはアメリカで使われていましたが、ガラスブロックは日本ではあまり使われていませんでした。高いので理由がないと使えなかったんですね。ところが、僕が電電公社【註11】にいたときに設計した《名古屋第二電話局》では、ガラスブロックをたくさん使っています【図7】。そのために、いろいろとお題目を考えたわけです。

  • 図7 《名古屋第二西電話局》
    [内田祥哉所蔵写真]

日本の電話局は、防火性能を確保することを大事に考えていて、開口部にはシャッターを入れていました。ところが、シャッターを入れると外開きができません。内側には電話の機械がビッシリたっているので引き違い戸にしないといけない。つまり、開き戸しかないヨーロッパのサッシとは違うものをつくらなくてはならなかった。また、引き違い戸は気密が不十分だったから、一重だと建物にゴミが入って困るんです。

ゴミが入るのがなぜだめかというと、そのころの電話局はストロージャー式交換機【註12】という機械を使っていて、その中にゴミが入ると、電話がつながらなくなっちゃう。その機械を日立がつくっていたのですが、日立はしょっちゅうクレームを受けていて、調査してみたところ、機械が悪いんじゃなくて、窓が悪いんだとわかったんですね。窓で気密がとれれば、機械は故障しないはずだ、ということになって、気密窓を考えることになりました。

普通に考えると、引き違いの二重窓にして、そのうえでシャッターをつけることになりますが、これはべらぼうに高くなるんですね。そこで、どのみち窓は開かなくていいのであれば、上の方はガラスブロックにするのはどうですか、と提案しました【図8】。とはいえガラスブロックも高いので、ガラスブロックの隣にはコンクリートの壁をつくります。このころは工場でつくるカーテンウォールの考え方がありませんでしたから、現場の床の上でガラスブロックを埋めた壁をつくって、立て起こしてくっつける。今で言えばサイトプレハブで戸田建設が施工しました。

  • 図8 《名古屋第二西電話局》の指向性ガラスブロック
    [内田祥哉所蔵写真]

ガラスブロックは保谷クリスタルでつくりましたが、光を天井に屈折させるガラスブロックは日本でつくっていなかったので断面のプリズムのかたちまで設計しました。季節により太陽が高いときと低いときの平均値を計算して、いろいろな屈折率をもったプリズムを配列して、試作品に光をあてて実験をしました。現場小屋で夜になってから、映写機の幻灯をあてるんです。下の引き違い窓は普通のガラスだから光は下に落ちて、上の窓はガラスブロックで上にあがる。そういう設計をしました。

ともかく、このときはガラスブロックを使って、非常に安く壁をつくることができました。ところが、後になると道路から子どもが石をなげて、ガラスブロックが割れるんですよ。それで上司に怒られました。《霞ヶ関電話局》にもガラスブロックがついていますので、東京でも見ることができます。
(総論 窓の成り立ち 《3》に続く)

 

本連載は、書籍『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』より、内容の一部を抜粋したものです。

『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』 内田祥哉: 著 門脇耕三/藤原徹平/戸田穣/YKK AP窓研究所: 編 出版: 鹿島出版会 出版年: 2017年

 

1       1928-。建築史家。専門は日本建築史。1952年東京大学卒業。奈良文化財研究所平城宮跡発掘調査部長、文化庁文化財保護部建造物課長、文化財監査官、奈良国立文化財研究所所長、文化財建造物保存技術協会理事などを歴任。

2       土壁を塗り残して小舞の下地を表しとした窓。室内側は明かり障子を引くか、掛け障子とする。草庵茶室にて現れた侘びた意匠の窓であり、数寄屋風書院にも用いられる。

3       不定型なかたちにぴったりと合うように木材を加工すること。日本の伝統木造では、自然石の礎石の上に柱を立てる石場建てなどにおいて、ひかりつけは必須の技術であった。

4       1888-1976。チェコ出身の建築家。­1909年プラーグ工科大学卒業。翌年渡米し1916年フランク・ロイド・ライトの事務所に入所。帝国ホテル建設のためライトと来日し、­‑­年東京で事務所設立。モダニズムの作品を数多く実現する。

5       ガラスが割れたままになった小学校校舎を見た連合軍総司令部から支援を受け、1947年末から生産が始まった金属線を入れた校舎専用のガラス。金属線が入れられたのは、他に流用されないことが支援の条件とされたため。

6       1912-2000。建築家。1935年東京帝国大学卒業。東京松田建築事務所を経て1937年逓信省入省。吉田鉄郎らが築いた逓信建築を受け継ぎ、戦後の郵政建築へと発展させる。1963年退官、事務所設立。逓信省時代の内田祥哉の上司。

7       1956-。建築学者。1980年東京大学卒業、同大学院に進学。日建設計などを経て、1997年神戸芸術工科大学助教授、2004年教授。建築設計理論や近代建築の保存・再生について研究。八幡浜市立日土小学校の保存・活用に携わる。

8       1885年から1949年まで、一時期を除き存続した中央官庁であり、郵便や通信を管轄した。局舎の建設のため置かれた営繕課は、吉田鉄郎などの建築家を輩出し戦前の近代建築を牽引した。1949年に郵政省と電気通信省に分かれる。

9       表面に模様が彫り込まれた板ガラス。溶解されたガラスが通されるロールに刻まれた型によって模様ができる。1960年代初頭にフロート法が国内に導入された後、メーカー間の競争によって多種多様な型ガラスが生まれた。

10       1922-2012。建築家、建築学者。­1942年武蔵高等工科学校卒業。村田政真の事務所などを経て1952年事務所設立。1966年武蔵工業大学(現・東京都市大学)教授。鉄骨造住宅「SH」シリーズなどを通じ建築の工業化を追求したが、後に木造を再評価し研究。

11       日本電信電話公社の略。郵便や通信を幅広く管轄していた逓信省は­1949年に郵政省と電気通信省に分かれたが、電信電話業務を管轄する電気通信省は­1952年に電電公社に移行した。現在のNTTグループの前身。

12       最初期の自動電話交換機。通話しようとする人の電話線を相手方の電話線に接続する電話交換は、当初は手動の機械によって行われたが、日本では関東大震災を契機として1926年にストロージャー式交換機が導入された。

 

 

内田祥哉 /Yositika Utida
建築家、建築学研究者、東京大学名誉教授。1925年東京生まれ。東京帝国大学第一工学部建築学科卒業。逓信省、日本電信電話公社を経て、東京大学教授、明治大学教授、金沢美術工芸大学特認教授・客員教授、日本学術会議会員、日本建築学会会長を歴任。工学博士、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、日本学士院会員。おもな作品に《東京電気通信第一学園宿舎》、《中央電気通信学園講堂》、《佐賀県立博物館》、《佐賀県立九州陶磁文化館》、《武蔵学園キャンパス再開発》、《大阪ガス実験集合住宅NEXT__》など多数。主著に『建築生産のオープンシステム』(彰国社、1977年)、『建築構法』(市ヶ谷出版、1981年)、『造ったり考えたり』(私家版、1986年)、『建築の生産とシステム』(住まいの図書館出版局、1993年)、『建築家の多様 内田祥哉 研究とデザインと』(建築ジャーナル、2014年)など多数。