WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 窓の変遷史

第8章 出窓・天窓

真鍋恒博

08 Jan 2016

窓のディテールを読み解く

サッシ以外にもいろいろな開口部関連製品が並行して開発されてきたが、連載最終回では、前回に引き続き関連製品として「出窓」および「天窓」製品の初期の開発動向、およびアルミサッシ関連技術開発について述べる。

出窓ユニット
<出窓の普及と製品化>
終戦直後の臨時建築制限令の時代には、必然的に床面積に算入されない出窓が普及した。筆者も幼少時に親が社宅を得て入居したが、まだ15坪制限の時期で、たしかに出窓が多かった。住宅の建築制限は1950年に廃止されたが、その社宅も後に増築された (ガス風呂になった) 記憶がある。時代が下って世は豊かになったが、都市部の宅地狭小化で類似の状況となって、出窓サッシの普及につながったと思われる。

アルミサッシが出現した頃から、壁面を出っ張らせてサッシを取付ける設計が行われており、出窓ユニットの発想は以前からあったが、売れる見込がなかったため製品化には至っていなかった。その後、現場施工の簡略化が求められ、出窓のオーダーも増えたため、製品化された。サッシのカタログにも時代ごとの傾向が見られ、住宅用アルミサッシの総合カタログでは、各社とも最初の項目に通常のサッシではなく出窓ユニットを載せていた時期もある。

出窓サッシ出現の理由としては、建築面積の制約への対処 (窓が見付面積の1/2以上、外壁からの出寸法500mm未満、床から300mm以上に取付け) に加えて、意匠面では住宅の洋風化 (無国籍の白壁など) に似合う窓として登場したこと、また機能面ではより広いスペースの確保や機能の付加が容易であることなども挙げられる。なおアルミ製バルコニーは1977年、窓台部品は1979年に発売され、1989年には出窓ユニット (出窓全体) と出窓サッシユニット (窓のみ) がBL部品に認定された (2006年に廃止) 。

<付加機能・意匠化>
1969年にアルナ工機が、屋根・サッシ本体・地板で構成される木造住宅用の出窓ユニットを、最初に発売した。開発当時はアルナ工機一社しか製造しておらず、宣伝力不足や、まだ純日本的なスタイルの住宅が多かったことなどから、普及には至らなかった。製品のうち90%が台所用で、意匠性より機能性が重視されていた。

しかしその後、出窓製品には、立山アルミ(1973)、トーヨーサッシ (1974) 、YKK(1974)、日本アルミ(1977)などが次々に参入し、後に不二サッシ、三協アルミなどからも発売されるようになった。1979年には新日軽とアルナ工機が共同で出窓サッシ、1980年には出窓ユニットを量産販売した。このように1970年代になって出窓用の製品が多く作られるようになった。

 <出窓製品の普及と多機能化>
バブル経済期 (一般的に1986~1991年) の頃になると、窓に対しても個別化・多様化・ブランド志向・高級化等が求められるようになった。その一つに、増改築分野で需要が伸びた出窓の商品開発がある。上記のように当初は普及に至らなかった出窓も、1970年代半ば頃から各社から発売されるようになり、1980年代には、出窓の分だけ室内空間を広く使うことと、狭小敷地で総2階建が増えて単調な外観になりがちな壁面に変化を付けるデザイン上の要求から、出窓の売上は伸びた。

1983年に積水ハウスで、洋風のサンルームへのニーズに対応した、出入り可能なテラス出窓「テラスウインドー」が採用され、その後各社から同様の製品が発売された。また同時期に、出窓下スペースを有効利用するための付加機能を持つ出窓製品が登場した。具体的には、トーヨーサッシの洗面台付き出窓(1983)、新日軽の三面鏡付きサッシ(1985) 、YKKのエアコン付き出窓サッシなどの製品がある。また屋根部をガラスにして正面のガラスと突合せにした出窓 (1985) や、シャッターボックスを内蔵した出窓が発売されるなど、多様化・多機能化が図られた (図版32)

  • 図版32 ガラス屋根の出窓サッシ
    三協アルミニウム工業から1990年に発売された「ノイリッチ・トップライト出窓」は、立地条件への対応を考慮して充分な採光を図るべく、ガラス屋根を採用した出窓製品の例である。色は3色用意されている。

1993年に三和シャッター工業から、窓の下にシャッターを収納しワイヤーで吊り上げて閉鎖する方式で、窓上部をすっきりおさめた「リフトアップシャッター一体出窓・サンアップ」が発売された。また1994年には一般型サッシとシャッターを一体化した製品も登場している。

<RC造・ALC造用出窓>
1974~75年頃、アルナ工機がRC造用の出窓ユニットを開発した。当時は、規格品・オーダー品を合わせて、同社の出荷量の三分の一は同業他社からのOEM受注品であった。また同社は、1979年にはALC造建物用の出窓ユニットを発売した。それ以前はALC造では壁面の立体形状化は困難とされていたが、この製品の出現はALC造用の出窓製品普及のきっかけとなった。不二サッシでは1984年にRC用およびALC用の出窓ユニットを発売し、同年にはビル用の空調機付き出窓も試作している。

<サンルームなどの類似製品>
1973年には、アズマ工機 (1982年アルナ工機と合併) が、アルミ系住宅用エクステリア商品としてサンルームを発売した。その後、昭和アルミ、大仙、東和物産も生産を始めたが、この4社はすべて家庭用温室 (大仙は園芸用大型製品が中心) を手掛けており、温室の技術と思想で開発された製品と言うことができる。その他にアルミ製風除室(1981)、アルミ製サンルーム(1982)など、サンルームおよび類似製品がこの頃から普及し始め、他社も参入するようになった。

天窓
<初期の天窓製品>
我が国の最も初期の天窓サッシとしては、坂本商会 (1906年創業) のオーダーメード・スチール製天窓「坂本式スカイライト」が挙げられる (図版33) 。形鋼とロール成型した鋼板を組み合わせ、ガラスはパッキングで押さえたものであった。形状は屋根の勾配に合わせた平板状だけであり、主に工場等で使われた。ガラスは当初は普通板ガラスであったが、後に線入りガラス、さらに網入りガラスに改良された。

  • 図版33 坂本式スカイライト
    坂本商会は1906年創業の、ベンチレーター・スカイライト・屋上排煙装置のメーカーとして現代まで製造・販売を続けていたが、2013年に廃業に至り、スカイベンツが業務を引き継いだ。枠材には明治から昭和初期までロール成形スチール板を使っていたが、同社はその後、日本で初めてアルミ型材を使った天窓を作っている (1965年特許取得)

<樹脂製天窓>
アクリル樹脂板は1943年に三菱レイヨンで開発された材料だが、戦後に応用製品として、海外の製品を参考にしたアクリル製ドーム型天窓「アクリドーム」が発売された。1960年代には既に美術館や博物館等で採用されるなど、幅広く普及した。当初は建物躯体に直接ボルトで取付けるため漏水の問題があったが、1970年代には枠を用い排水経路を考慮することで漏水問題は解決した。1971年には換気・排煙設備の規定改正に伴って開閉可能な製品も開発された。1968年『建築技術』誌には、アクリル樹脂より高強度のFRPを使用した「ポリドーム」が掲載されている。

<住宅用天窓製品の開発>
住宅の洋風化傾向が進んだ1970年代半ばには、積水ハウスにドーム型天窓が採用されるなど、天窓製品が次第に普及する。1977年頃には初の木造住宅用ドーム型天窓「ハウスドーム」が菱晃から発売された。同製品は、室外側にポリカーボネート樹脂、室内側にアクリル樹脂を用いた二重ドームであり、空気層によって断熱・防露性が得られ、建設省告示で屋根材として不燃材と同等以上と認定され防火地域でも使用できた。プラスチックドーム自体はアルミサッシとは別の製品だが、アルミ台座を使っている点ではそれに準ずる製品でもある。

1978年には新日軽がアルミ製屋根窓型天窓を開発した。同製品は三井ホームの要請によって開発されたもので、1983年に「トップライト」として製品化された。アルミ框と二重ガラス (室内側は網入りガラス) を採用し、開閉方式は突出しと嵌殺しがあった。アルミ製の開閉式天窓は、輸入品の木製天窓を参考にして1980年頃から生産されるようになった。また、高所にある窓の操作の面から電動開閉式の製品が1985年に発売され、1988年にはBL部品に認定されている。

<輸入品の木製天窓>
木製の天窓製品としては、1940年代から製品化されたデンマーク・ベルックス社の製品が代表的であり、アルミ・木複合構造の「ルーフウィンドウ GGL」が1978年から輸入されている。同製品は日本向け仕様として網入りガラスを使用した中軸回転窓であった。同社は1981年に日本に進出しており、輸入住宅ブームの1990~2000年に最盛期を迎え、1995年までに約30万窓が国内で販売されたと言われている。国産品としては、取付け枠に木材を使用した製品が1980年に登場するなど、国内メーカーも類似の製品を発売した。しかし最盛期に10社ぐらいあった天窓メーカーも、輸入住宅人気が下火になった結果、多くが撤退した。

<断熱製品の開発>
1982年に松下電工から、ドーム型天窓のアルミ枠をPVC断熱パッキングで絶縁して断熱・防露性を向上させた「ナショナル採光窓ドーム型・開閉タイプ」が発売された。同製品はアルミ枠とドームの接合部に発泡性防水シートを敷き込む等、雨仕舞も考慮した製品であった (図版34) 。屋根窓型 (屋根面に沿った平面状の天窓) では、翌年に類似の枠と複層ガラスを使用した製品が発売されている。

  • 図版34 断熱材・防水シートを挟んだアルミ製天窓
    開閉機構を持ったプラスチックドーム型の製品にも、断熱性・防水性の改善を図ったものが登場する。「ナショナル採光窓 ドーム型・開閉タイプ」(1982年)

<バブル期の多様化・多機能化・高性能化>
1985年以降のバブル期には、引き続き雨仕舞や断熱・防露性を考慮した開発が行われると共に、開閉方式や形状の多様化や多機能化傾向が見られた。ドーム型では1985年にABC商会から横スライド開閉方式の「アルウィトラ・スカイライト」が発売された。同製品はドーム部と枠の接触面にガスケットを使用して水密性を高め、発泡ウレタンの一体成形材によって断熱・防露性を高めたものであった。また同年には、二重ドームと網入りガラスの組み合わせや、ドームと複層ガラスの組合せによる三層構造の製品など、断熱・防露性を確保した製品も発売されるようになった。また、垂直に開閉する製品や、1980年代前半に既に登場していた多面体形状のドームを使用した製品のほかに、外観を滑らかにして流線形を強調した製品なども発売された。さらに、電動開閉式に雨・光・温度センサーによる自動開閉製品も登場している。

屋根窓型では1980年代前半に左右にスライドする製品が登場していたが、1989年には上下にスライドする製品も発売された。形状も、四角錘形状や、金具を全て枠内に隠蔽して木質の内観を強調した製品も発売された。機能の面からは、1985年には枠内に換気扇を内蔵した「ナショナル採光窓・換気扇付」が松下電工から発売され、ドーム型と同様に雨・温度センサーによって自動開閉する製品も登場した。また、アルミ枠の間にウレタン樹脂を充填した型材やLow-Eガラスによって断熱性を高めたり、意匠性を考慮して室内側に樹脂材を使用する等の変更も行われた。ただしバブル経済は、天窓の売上げ自体にはあまり影響がなかったようである。

<バブル崩壊後の傾向>
バブル崩壊以降は一般に、品質確保よりもコスト削減が求められるようになったが、ドーム型天窓においては従来と同様の機能を持つ製品が引き続き発売されている。1990年の防火戸試験方法の改正に伴って乙種防火戸の規定が変更され、FRP製ドームと網入りガラスを使用した製品がサッシ扱いで乙種防火戸に認定された。さらに軽量化や施工性の向上を図った製品も登場した。その後は、バブル期に比べるとフラットですっきりしたデザインのものが好まれている。

屋根窓型においては、1990年代の二度の省エネルギー基準の改正によって省エネルギーへの意識はより高まり、断熱・気密性だけでなく、遮熱性も考慮されるようになった。例えば、従来、オプションとして扱っていたブラインドを二重ガラス間に内蔵した製品や、遮熱・断熱・強化複層ガラスを使用した製品等が挙げられる。1990年代以降、各社からアルミ木複合材を使用した製品が発売されるようになった。

従来、取付け枠を現場調達して枠部材を現場組立てしていたが、1990年代半ば頃から完成品として出荷する製品が発売されている。松下電工では、完成品として施工する製品が1980年代後半に一時的に登場していたが、1990年代前半には現場組立てに変更されていた。

 

わが国のアルミサッシの変遷については、概ね1990年代まで述べたところで、一応の区切りとする。これまでの連載では時代毎の特徴的な製品を追う形で述べてきたが、技術的な視点からのまとめなど、違った切り口からの変遷のまとめも必要である。それらのうちで、表面処理と接合について、以下に簡単に補足しておく。

アルミサッシの技術に関するメモ
1.アルミの表面処理・着色方法
アルミニウムは腐食対策のために表面に保護被膜を設ける必要がある。またアルミニウムは銀色で、初期にはそのままでも使われたが、着色によってデザインに多様性が得られるようになった。

<初期の表面処理>
森五ビル (1932) や東急会館 (1954) など、初期のアルミ被覆サッシの表面仕上げは、アルミ板に透明ラッカーを吹付けただけのものであった。アルミ表面加工は日本アルブライト工業などがすでに行っていたが、さほど普及していなかった。アルミサッシのいわば本家であるアメリカでも、初期には無処理のものが使われており、ヨーロッパでもカラーペイント吹付などの塗装が多かった。

アルミサッシ導入期の表面処理には、普及品用の化学研磨とクリアラッカー焼付け (ブライトディップ) 、高級品用の硫酸浴・陽極酸化被膜処理とクリアラッカー焼付け (無色アルミライト) 、カラー製品用の硫酸浴・陽極酸化被膜処理・染色仕上 (エレクトロカラー) の3種類があった。

 <アルマイト加工>
1929年に理化学研究所の植木栄らがアルミニウムの蓚酸法陽極酸化皮膜を発明し、それを引き継いだ同研究所の宮田聡が「アルマイト」と命名した。当時は登録商標であったが、現在ではアルミニウムの陽極酸化皮膜の一般名称となっている。アルマイトはやや黄色味を帯びたもので、鍋や弁当箱に多用された。なお理研では黄色になるのを防ぐため硫酸を混ぜた「改良アルマイト法」を開発している。その後の銀色の表面処理は、硫酸による「アルミライト」法が主流になった。これは1923年、アメリカのアルコア社・フリッグの発明になるもので、我が国には1958年頃に導入された。

<染色法>
1960年頃には、アルミサッシ表面の着色に染色法が使われており、不二サッシ・エレクトロカラーなどの製品例がある。アルミ表面の微細孔に有機または無機染料を潜み込ませるもので、色調の種類は多いが耐久性に問題があり、昭和40年頃には廃れた。筆者もアルミ製薬缶を空焚きした結果、蓋の色が消えてしまった経験がある。

<自然発色>
1960~62年頃、アメリカから自然発色法が導入され、アルミサッシは銀色一色からカラーサッシの時代に入った。日本建鉄はアルミ自然発色「NKカラー」 (1966年) を、また日軽アルミは「ニッカラー」を、それぞれ独自に開発した。自然発色はアルミ合金の成分による発色であり、合金の成分と被膜厚さで色を出すものである。品質は優れているが色合わせが難しく、コストが高いなどの難点があり、殆ど使われなくなった。例えば東洋サッシの「TUアンバー」は、1981年のカタログには掲載されていたが、1982年以後は記載が無くなっている。

<交流電解発色法 (アサダカラー) >
金属塩水溶液中で交流通電を行う二次電解着色法が、1959年ごろ神戸商大・浅田太平博士によって特許申請された (「発明された」とする資料もあるが、1936年にイタリアのV.Caboniが発明したが顧みられず、後に浅田太平が特許申請したもの) 。これはアルマイト被膜処理の際に表面の微細孔内部に金属を析出させて着色する方法で、自然発色法に比べて安価で色むらが少ない。上記のように外国技術との関係もあったため改良が重ねられ、1963年に特許取得し、1965年に工業化された。この方法は一般に「アサダカラー」と呼ばれ、1969年以降、サッシメーカー各社が使用権を得て、主流の技術になっており、海外メーカーにも技術輸出されている。大規模に使われた最初の例に、霞が関三井ビル (1968年) がある。

各種の建築材料や部品について、こうした変遷を調査していると、新しい技術が初めて本格的に使用された建物の例として霞が関三井ビルがしばしば登場する。このビルは、わが国初めての超高層ビルとして柔構造などで有名だが、それ以外にも設備や内装部品などにさまざまな新技術が導入されており、その後のビル建築の構法を強く方向付けた建物であることが分かる。

<表面塗装とカラーサッシ>
アルミサッシの表面は、工事中の保護のために塗装されているが、当初はエポキシ系が使われ、アクリル系から、透明ウレタン変性アクリル樹脂になった。コンクリートに接触するサッシの裏面は、耐アルカリのために初期はアスファルト系の黒色の保護塗装がなされていたが、ウレタン変性アクリル樹脂に変わってアスファルト系の塗装は使われなくなった。

1970年頃から、アルミの表面に焼付け塗装を施したサッシが登場した。酸化被膜処理を施さずにアクリル系塗料を焼き付ける方法や、被膜の封孔処理をせずに電着塗装または焼付け塗装する方法などが開発された。表面処理の被膜に関しては、現在は陽極酸化被膜の上に透明樹脂塗料を焼付け塗装したものが主流であり、銀色のままのサッシは珍しくなっている。住宅用アルミサッシ全体に占めるカラーサッシの比率は、1974年には11%であったが、1977年には55%、1983年には95%に達した。なお、アルミの銀色は和風の街並みには似合わないとして、風致地区では景観保全上カラーサッシを使うように条例で定めている自治体もある。

<ホワイト系と木目調>
電着塗装のホワイト色製品は1978年頃登場し、1980年代にはサッシに限らずホワイト系の建材が人気を博した。グレー系の自然発色材も1981年頃から用いられている。また1960年頃には、家電製品等に木目模様が流行した。1975年にはアルミサッシに電解被膜で木目模様を作る技術が開発された記録があるが、電解木目被膜処理の特許は1990年以降にも散見される。その後、パターンを印刷したシートを貼るラッピング法が開発され (1982年) 、現在でも室内建具に多用されている。

 

2.サッシバーの接合方法
サッシは直線状のサッシバーを枠状に組み立てて作るが、その接合方法にもいろいろな技術が試みられて現在に至っている。以下にその概要をまとめておく (図版35)

  • 図版35 サッシバーの接合方法
    初期にはいろいろな方法が試みられたが、タッピングスクリューが主流になった。アルミサッシでは雌ねじになる部分が同一断面で長く続いているため、ねじ部にはテーパーが無く、先端にねじ山の無いガイド部分が付いた雄ねじが使われている。

<かしめ止めなど>
初期には、隅金物ビス止め・熔接・ほぞかしめ止めなどの接合方法が使われた。1959年に発売された不二FR型では、コーナーピースかしめ止め、ダイカストブロックビス止め、ほぞ差込みロックピン止めが採用された。当時は信頼性がまだ十分ではなかったため、タッピングスクリューは使われていなかった。かしめ止めは過渡的な接合方法であり、昭和40年頃には使われなくなった。

<熔接>
1961年発売の不二FR-A型では、サッシ枠の組立に四隅を同時に熔接するフラッシュバット熔接が採用された。前述のとおり、初めて性能を表示した画期的なサッシである。その後、サッシバーの表面処理が自動化され、組立後の熔接跡処理の二度手間を避けるため、昭和40年頃までには熔接は使われなくなった。ただしカーテンウォールや車両用サッシなど、一部ではその後も熔接が使用されている。

<タッピングねじ>
1957年にサッシバーの材質がA 6063合金 (強度は低いが押出成形に向く) に変わり、接合にはタッピングスクリュー (タッピングねじ) が使われるようになった。タッピングねじの材質は、当初は軟鋼・カドミウムめっき製品であったが、軟鋼・亜鉛めっき製品、SUS 303などの18-8ステンレス (頭飛びを起しやすい) 、さらにSUS 631などの高ニッケル析出硬化系ステンレスへと進化した。これによって組立の信頼性や作業性が向上し、ノックダウン方式が本格化した。当初はオーダーメード分野で確立されたタッピングねじは、框の水密パッキング材の改良もあってレディーメードサッシにも普及し、その後の接合方法の主流となって現在に至っている。

 

あとがき
この連載では、我が国におけるアルミサッシおよびその関連製品の変遷の概要を、黎明期からほぼ1990年ごろまでを対象に述べてきた。無論それ以降についても、性能の飛躍的な進化や社会背景の大きな変化などもあって、当然ながら変遷を語る上では無視できない。しかしあまりに新しい時代については、まだ個々の技術の客観的評価が固まっていないものもあり、また現役の製品に直接関係する内容の発表には制約がある場合もある。したがって、この記事のソースとなっている研究室の変遷史関係の論文でも、その時点での「最近の事象」は敢えて対象として来なかった。

さらに、これらの論文 (下記の註参照) は、最も新しいものでも10年以上前に調査したものであり、カバーしている年代範囲は概ねここまでと言って良い。予定していた連載回数を既にオーバーしていることもあるので、この連載は、ここで一応の区切りとする。永らくのご愛読に感謝する次第である。

 

この連載は、拙著『図説 近代から現代の金属製建築部品の変遷 第1巻 開口部関連部品』 (1996、建築技術) 、および研究室の開口部部品の変遷を扱った修士論文 (小山田雅美君:1987年度、高橋拡君:1988年度、齋藤大輔君:2005年度) の内容をもとにしたものである。学術的な資料としてではなく、気軽に読まれることを意識したスタイルとして、煩瑣をさけるため敢えて出典は記載しなかったが、ソースとした上記の論文では、根拠となる文献と具体的な記載内容や、識者ヒアリング調査による場合には該当する具体的文言などが、詳細に記録されている。ただし、中には回答者の個人的見解も含まれており、すべてが客観的事実とは断言できないが、今となっては正否の解明は不可能である。 (完)

 

真鍋恒博/Tsunehiro Manabe
1945年生まれ。東京大学工学部建築学科卒業、1973年東京理科大学工学部建築学科専任講師、同助教授・教授を経て2013年名誉教授。工学博士。2000年日本建築学会賞 (論文) 受賞。専門分野:建築構法計画、建築部品・構法の変遷史。主な著書:「図説 近代から現代の金属製建築部品の変遷 第1巻 開口部関連部品」 (1996年、建築技術) 、「建築ディテール 基本のき」 (2012年、彰国社) 、「図解建築構法計画講義」 (1999年、彰国社) 、「住宅部品を上手に使う」 (1992年、彰国社) 、「省エネルギー住宅の考え方」 (1979年、相模書房) 、「可動建築論」 (1971年、井上書院) 。

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